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三重の猿エギンガー

三重県を中心に活動している変態エギンガーです。
エギング大好き!美味い物大好き!
クレイジーオーシャンのモニターをさせて頂いております。
加藤大治郎
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    ↑をクリックして頂けると、今週末は爆釣かもよ?(笑)




    今回のネタは、釣りやエギングには全く関係の無い内容ですので、興味の無い方はスルーして頂いて結構です。




    私は釣り以外の趣味として、バイクが大好き!


    もし

    「趣味を釣りかバイクか、どちらか選べ」

    なんて言われても無理!



    なぜなら、釣りは自然が主体の趣味であるのに対し、バイクは機械と自分自身が主体の趣味だから



    そんなバイクですが、昔は峠を走ったり、年に1〜2回はレースに参戦していた頃もありました。


    在りし日の『NSR50 OPENクラス(改造無制限)車両』

    コイツは細部に亘って全て自分で手を加えた車両で、ベースは50ccの車体ながら最高速は140km/hオーバー!

    『パワーはあっても扱い易い』というコンセプトの基に、自分好みの特性を持たせる事が出来たので、かなり納得のいくマシンに仕上がってました。


    普段は峠をメインに走っていましたが、京都の

    『近畿スポーツランド』(通称、近スポ)

    まで、ステップワゴンをトランポにして運搬し、練習に行ってました。


    バイクを通じて仲間も増えたし、耐久レースで表彰台のてっぺんにも登る事が出来たし、このバイクは私の青春時代の宝物でした。





    ・・・ただ残念な事に、離婚前のゴタゴタで強制的に売却させられてしまい、今では手元にありませんが、買い取って頂いた大阪産業大学の単車研究部の学生さん達に、大切に乗って頂いています。(と、思いたい・笑)





    そんなバイクレースの世界にも『プロ』と呼ばれる方々がいらっしゃいます。


    「バイクレーサーの中で、あなたは誰のファンですか?」


    そう質問されたら、迷わずこう答えるでしょう。






    『加藤大治郎』だと


    2003年の日本GP(鈴鹿)で、レース中の事故により他界されてしまいましたが、今でも大ファンです。


    大ちゃん(加藤大治郎の愛称)は、不思議なオーラ?みたいなのを持ってる人でした。

    特に、握手した時の感覚は今でもはっきり覚えています。


    2000年の日本GPの後、鈴鹿サーキットで開かれたホンダの祝勝会での出来事でした。
    彼の手は私よりも小さく、指も細く、他のGPライダーと比較すると

    「女性の手なんじゃないか?」

    と思う程でしたが、握手をした瞬間に私の手全体を包み込む暖かい空気というか、逆にとても大きい手で優しく握られている様な感覚がありました。


    その時は

    「・・・え?あ、あれっ?今の・・・何か変やった」

    としか思わなかったんですが、握手でそんな感覚を覚えたのは、後にも先にも大ちゃんだけです。



    人生や勝負において、事が過ぎてから「〜たら」「〜れば」という言葉を用いる事が多々ありますが、大ちゃんが生きていたら、レースを続けていれば、間違い無くロードレース最高峰クラスにおいて日本人初の世界チャンピオンになっていたでしょう。






    下記資料は、wikipediaよりお借り致しました。


    来歴

    【ポケバイ・ミニバイクレース時代】
    3歳の誕生日に両親からポケットバイクをプレゼントされたことをきっかけに、自宅近くのサーキット秋ヶ瀬に通うことになる。武田雄一、亀谷長純(従兄弟)、阿部典史といった後のロードレースライダーが秋ヶ瀬には集っており、大治郎は彼らと競うことで腕を磨いていった。秋ヶ瀬のオーナーの息子であり、後のフォーミュラニッポンチャンピオンとなる本山哲を兄のように慕っていた。

    11歳のときにミニバイクレースにステップアップ、連戦連勝を誇った。


    【ノービス時代】
    1992年、16歳になりバイクの免許とロードレースライセンスを取得。1993年に九州・熊本のホンダ系名門チーム「Team高武」に加入。九州選手権の3クラス(GP250、GP125、SP250)で出場した全てのレースで優勝し、3クラス全てでチャンピオンを獲得。関東選手権、鈴鹿選手権でも勝利を重ねた。Team高武には先輩に柳川明、宇川徹、同年代に玉田誠、後輩に中冨伸一、清成龍一がいる。

    当時高校生だった大治郎だが、レースの度に住んでいた埼玉と熊本を往復していた。両親の方針もあってレースがあるからといって高校を休むことは無かったという。


    【全日本選手権時代】
    1994年、Team高武から全日本ロードレース選手権GP250クラスにフル参戦。マシンはホンダRS250R。転倒の相次ぐシーズンだったが、終盤のTIサーキット英田で初優勝をとげる。鈴鹿8耐にも初参戦。辻本聡とのペアで挑むもリタイアに終わる。

    1995年、前年の活躍を受けてHRCからワークスマシン・ホンダNSR250(型落ち)を貸与される。2勝を上げランキング5位。1996年には4勝でランキング2位。ロードレース世界選手権日本GP(鈴鹿)にスポット参戦、3位に入る。

    1997年、ホンダワークスのカストロール・ホンダに加入、チャンピオン候補の筆頭となる。シーズン開幕前に交通事故に遭った大治郎は全日本開幕戦を欠場、スポット参戦予定の日本GPへの参戦も危ぶまれたが、大治郎は欠場を促す医師を「絶対に勝つから」と説得、骨折を抱えた体で日本GPに臨んだ。予選3位からスタートし、ホンダの先輩でGPレギュラーの宇川徹、1993年GP250クラス世界王者の原田哲也とトップ争いを繰り広げ、最終ラップの最終コーナーでトップに立ち、優勝。全日本でも8勝を上げ、初の全日本チャンピオンに輝く。

    チャンピオンとして臨んだ1998年、HRCがNSR250をフルモデルチェンジ、熟成が進まず大治郎のみならず世界選手権でもホンダGP250勢は不振に陥った。その中でも日本GPを連覇、改めてその才能を世界にアピールするも、全日本では1勝も上げることなくランキング8位に低迷してしまう。

    前年の苦悩を繰り返すまいと、1999年はNSR250の開発に尽力した。ヤマハの松戸直樹とのタイトル争い。後半戦に4連勝と巻き返したが、最終的に松戸とポイント・勝利数・上位順位獲得回数で並び、レギュレーションによって前年のランキングが上位だった松戸にチャンピオンの座を奪われた。


    【世界グランプリ時代】
    2000年、イタリアのグレシーニ・レーシングに加入し、GPライダーとしてロードレース世界選手権GP250クラスにフル参戦。第3戦日本GP(鈴鹿)でシーズン初勝利、シーズン終盤にも3勝をあげ計4勝、ランキング3位。第15戦パシフィックGP(もてぎ)では、ヤマハの中野真矢とファステストラップの応酬によるハイレベルなトップ争いを展開し優勝。このレースはファンの間でも名勝負として人気が高い。この年の鈴鹿8耐には宇川徹と組んで出場し、最多周回記録を更新しての初優勝。表彰台で宇川とともにツナギを脱いでファンにプレゼントした。

    GP2年目の2001年、前年チャンピオンのオリビエ・ジャックをはじめ中野・宇川らランキング上位のライダーがGP500にステップアップ。GP250は大治郎の独擅場かと思われたが、前年までGP500に参戦していたアプリリアの原田哲也と一騎打ちとなる。開幕4連勝でダッシュをかけた大治郎に対し、原田は2位に入ることが多く、大治郎の落としたレースを拾ってなんとか喰らいついている状態だった。徐々に2人のポイント差は広がり、第15戦マレーシアGPで大治郎は自身初の世界チャンピオンに輝く。最終戦リオGPにも勝利し、GP250クラスの年間最多勝記録に並ぶ11勝を上げ、チャンピオン獲得に花を添えた。翌年、この功績を称え、文部科学省から「スポーツ功労者顕彰」が贈られた。

    2002年、最高峰クラスにステップアップ。最高峰クラスはこの年から「MotoGPクラス」と名称が変わり、それまでの2st500ccマシンに加え、4st990ccマシンが参戦できるようになった。チャンピオン、バレンティーノ・ロッシの乗るホンダ・RC211Vなど、4stマシンの多くは大治郎の乗るホンダ・NSR500をはじめとする2stマシンの能力を大きく上回り、ほとんどのレースにおいて2st勢は優勝争いに加わることは無かった。スペインGPでは2st勢としてのシーズン最上位タイとなる2位を獲得するなど活躍。第10戦チェコGPからRC211Vを供給されるに至る。チェコGPでいきなり2位に入り、パシフィックGPではポールポジションを獲得。MotoGPクラス初優勝が期待されたがリタイア、それ以降も優勝できないままシーズンを終えた。


    【2003年】
    2003年日本GP決勝当日朝のフリー走行。この数時間後に悲劇が起きる。前年、体の小さい大治郎は大きくパワーのあるMotoGPマシンを扱いきれなかったことから、2003年初優勝を遂げるべく、オフシーズンに肉体改造に取り組んだ。ウィンターテストにも熱心に取り組み、王者ロッシからライバルの一人として名前をあげられた。

    確たる自信をつかめないままスタートしたシーズン開幕戦、日本GP(鈴鹿)、予選は好調といえない状態で11位。決勝ではまずまずのスタートをきり、4位争い集団につけた。3周目、130Rの立ち上がりで大治郎のマシンが左右に激しく揺さぶられ、コントロールを失い、マシンを立て直そうと試みたもののその先のシケインのスポンジバリアに激突した。発生から激突まで2秒ほどであった。ヘリコプターで病院に搬送され意識不明の状態が2週間ほど続いたが、4月20日未明、脳幹梗塞のため死去した。26歳。

    2004年5月8日イタリアのミサノ市で加藤大治郎を称え「viale daijiro kato」(加藤大治郎通り)が建設された。


    【その他】
    加藤大治郎は生前、野球チームを作りたいと話していたことから、彼の仲間が集まり「レーサーズ」という野球チームが結成されている。
    愛車はポルシェ・911Turbo(996)。事故で亡くなった後は、親友であり幼馴染の本山哲が所有する。
    加藤大治郎が優勝した2000年の第15戦パシフィックGP(もてぎ)のレース後、2位に敗れたヤマハの中野真矢はインタビュー中に涙を浮かべるほど悔しがっていた。後日中野は「レース中、周りの風景がゆっくり流れるように見えた。それくらい集中していた。それでも勝てなかった。」とコメントした。
    セリエA、ユヴェントス所属のアレッサンドロ・デルピエロも加藤のファンであり、加藤が欧州から帰国した時に成田空港で親善試合で来日したサッカーのイタリア代表と加藤が鉢合わせをして、その時にデルピエロが「おい、おまえカトウだろ?サインくれよ」と頼んだ。それを見ていたサッカーの番記者達が「あの日本人は何者だ?」となったと言う逸話がある。


    【主な戦績】
    1992年 - 16歳でサーキットデビュー
    1993年 - Team高武 with RSC(関東選手権はアイ・ファクトリー担当)
    九州選手権ロードレースGP250チャンピオン(ホンダRS250R)
    九州選手権ロードレースGP125チャンピオン(ホンダRS125R)
    九州選手権ロードレースSP250チャンピオン(ホンダNSR250R)
    鈴鹿選手権ロードレースSP250ランキング6位(ホンダNSR250R)
    関東選手権ロードレースGP250ランキング3位(ホンダRS250R)
    関東選手権ロードレースSP250ランキング15位(ホンダNSR250R)
    1994年 - Team高武 with RSC/ホンダRS250R
    全日本ロードレース選手権GP250ランキング7位(1勝)
    鈴鹿8時間耐久ロードレース リタイア (辻本聡)(チームHRC/ホンダRVF/RC45)
    1995年 - Team高武 with RSC/ホンダNSR250
    全日本ロードレース選手権GP250ランキング5位(2勝)
    鈴鹿8時間耐久ロードレース 12位 (テリー・ライマー)(NIKKEN Team高武RSC/ホンダRVF/RC45)
    1996年 - Team高武 with RSC/ホンダNSR250
    全日本ロードレース選手権GP250ランキング2位(4勝)
    ロードレース世界選手権・日本GP(鈴鹿)GP250クラス3位
    1997年 - カストロール・ホンダ/ホンダNSR250
    全日本ロードレース選手権GP250チャンピオン(8勝)
    ロードレース世界選手権・日本GP(鈴鹿)GP250クラス優勝
    鈴鹿8時間耐久ロードレース 9位 (武田雄一)(チーム国光 with HSC/ホンダRVF/RC45)
    1998年 - カストロール・ホンダ/ホンダNSR250
    全日本ロードレース選手権GP250ランキング8位
    ロードレース世界選手権・日本GP(鈴鹿)GP250クラス優勝
    鈴鹿8時間耐久ロードレース リタイア (武田雄一)(ラッキーストライクHSC/ホンダRVF/RC45)
    1999年 - カストロール・ホンダ/ホンダNSR250
    全日本ロードレース選手権GP250ランキング2位(4勝)
    ロードレース世界選手権・日本GP(もてぎ)GP250クラス5位
    鈴鹿8時間耐久ロードレース 8位 (玉田誠)(Team高武と桜井ホンダ/ホンダRVF/RC45)
    2000年 - AXOホンダ・グレシーニ/ホンダNSR250
    ロードレース世界選手権GP250ランキング3位(4勝/ルーキー・オブ・ザ・イヤー)
    鈴鹿8時間耐久ロードレース 優勝 (宇川徹)(チームキャビンホンダ/ホンダVTR1000SPW)
    2001年 - テレフォニカ・モビスター・ホンダ/ホンダNSR250
    ロードレース世界選手権GP250チャンピオン(11勝/年間最多勝記録)
    文部科学省 スポーツ功労者顕彰
    鈴鹿8時間耐久ロードレース 4位 (宇川徹/玉田誠)(チームキャビンホンダ/ホンダVTR1000SPW)
    2002年 - フォルトゥナ・ホンダ・グレシーニ/ホンダNSR500・ホンダRC211V
    ロードレース世界選手権MotoGPクラス ランキング7位(ルーキー・オブ・ザ・イヤー)
    鈴鹿8時間耐久ロードレース 優勝 (コーリン・エドワーズ)(チームキャビンホンダ/ホンダVTR1000SPW)
    2003年 - テレフォニカ・モビスター・ホンダ/ホンダRC211V
    ロードレース世界選手権MotoGPクラス

    4月6日 鈴鹿サーキットにて開催された第1戦日本GP決勝レース中、3周目にシケイン入り口で事故。シケイン手前左側防護体に衝突し、意識不明のままヘリコプターにより病院へ搬送される。以降、危険とされる事故後48時間を経過し、容態安定。
    4月19日 午後に容態悪化。
    4月20日 0時42分に三重県立総合医療センターにて脳幹梗塞のため死去。
    10月 MotoGP殿堂入り。日本人初、史上16人目。使用していたゼッケンNo.74が永久欠番に。
    11月28日 「加藤大治郎選手事故調査委員会」調査結果発表




    大ちゃん

    私はあなたを忘れない。

    あなたの様には上手く操れず、速く走らせる事は出来ないけど、遅くても下手くそでも、一生バイクに乗り続けるよ。



    加藤大治郎選手のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。


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    2009.12.18 Friday * 09:45 | バイク関連 | comments(2) | trackbacks(0)


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